X--1. 山陽道に沿って長岡(岡山市東岡山)から森下へ
山陽道は淡々と直線的に兼基へと進む。西にむかって大きく曲がるあたりに「追分」なる地名があった。
「備陽記」(前掲)に言う。
『村西ノ方西国海道茶屋アリ上方道ト邑久郡ト両方ヘ分ルル所故
分レノ茶屋ト唱ケルモ正徳元年辛卯歳十月八日ヨリ分レノ茶屋ト
名改ル』と。
この追分で山陽道は真西に方向を変え百間川の土手まで直線で延
びる。土手の手前三叉路を右に曲がるのが県道で、山陽道は真直
ぐ行って土手に上がる。この三叉路あたりに「二本松」なる地名
が残っている。土手にぶつかるとそこに石祠と小さな石仏が祭ら
れている。詳細不明。ここを土手に上がったところが、向こう岸
へ渡る地点。原尾島橋から200mほど下手になる。
「備陽記」(前掲)によると『原尾島村 村中西国海道茶屋アリ
六枚橋トテ石ノ橋アリ洪水水ハキノ為に百間川ノ内往還也常ハ田
畠也此川内ニ二本松アリ』とあり、川原に二本松があったことが
わかる。なおこの川は洪水時の放水用の川であり常には他は田畠
として利用していた。
この地、百間川の土手に立つと南西方向約2kにある岡山城を望める。
『山陽道は、中世まで二本松から城の後ろにあたる旭川東岸を北にさかのぼり、三野の渡しから辛川に至って
いた。それが近世では二本松から南下して岡山城の南で旭川を渡り城下町を通り抜け一宮に至るように変更さ
れた。』(「吉備と山陽道」土井作治・定兼学編)
さて山陽道は原尾島村で東南に向かう百間川を越え、南西方向へ直進する。城下への入り口に当たる森下口(岡山市森
下)の手前に珍しい社がある。「北向地蔵」が小川のほとりに祀られている。磁石をみると確かに「真北」を向いている。
HPを見ていると、「日本広しといえども、北向きに祀られているのは、このお地蔵様だけ」とか書かれているのを見る
が、ここにも祀られていた。
そもそも、お地蔵様は全国に500万から600万体あり、そのなかで
も北向きは400から500体あると巷では言われている。珍しいには
違いないが、ここだけというのは、自慢のしすぎと思うのだが。
ところで「北向き」の謂われがわからない。お地蔵様は西向きに
祀られるのが普通だが、どうして北向きにしたのか。
道筋に対しても、川筋に
対しても座りが悪い。単なる偶然とも思えない。
地蔵菩薩の浄土「伽羅陀山」は南方にあり、南に向かって祈れば直ちに浄土を発して北に向かって救いに来てれ
るといわれているが、あえてこのお地蔵様をどうして北向きにしたのか、詳細不明。
北向地蔵を過ぎて県道を渡れば森下口(岡山市森下)になる。ここには岡山城下への出入口として「惣門」が設けられ
ていたところである。
『惣門跡 此処は1573年(天正元年)宇喜多直家が岡山城下
の入口として惣門番所を設けた跡です。前の道は其の時引き
入れた国道西国往来で歴史の古い通りです。』と記された現
地案内板が道筋に立っている。
古い町並みを思わせる家が残っている。
岡山城下町には門が169ヵ所あった。このうち山陽道の城下町の出入口にあたる万町や森下町の門など主要な門29ヵ所に
は番屋が付いていた。門は夕五ツまたは四ツ(午後8時頃または午後10時頃)から朝六ツまで閉めており、その間は小門
を開けていた。(「よみがえる岡山城下町」片山新助著)
門のそばの番屋としては番太郎小屋、自身番、火の見小屋、髪結い床などがあった。番太郎は駄菓子屋などをかね、木戸
の開閉を受け持っていた。
この木戸を入れば、約2kほどで京橋に至る。
元亀元(1570)年宇喜多直家に属していた岡山城主金光与次郎宗高を切腹に追い込み、城明け渡しを受け家臣にその守備
を任せる一方で、岡平内に命じ城の大改修に当たらせた。そして天正元(1573)年直家が亀山城から岡山城へ移った。直
家没後の天正10(1582)年幼名八郎(秀家)が9歳で家を嗣ぎ、叔父宇喜多七郎忠家を後見とした。この時、岡山城天守
閣が建設され、本格的な城下町の都市造りが実施された。旭川はそれまで国富瓶井山の麓をめぐって南へ流れていた。
それを上道郡竹田村(岡山市竹田)地内から直ちに南下する
新川筋を堀り城の根元をめぐって本流が流れるようにした。
そして新川筋を掘りあげた土や濠を掘った土を運んで台地を
高く築きあげ其の上に本丸を築いた。ところが、旭川を蛇行
させたうえ川幅を狭くしたため、城下はたびたび洪水に見舞
われた。特に承応3(1669)年に起こった大洪水は城下に甚大
なる被害をもたらした。
当時、岡山藩主池田光政により洪水対策が命ぜられ、岡山藩
に出仕していた熊沢蕃山は、洪水対策として荒手と呼ばれる
越流堤と放水路を組み合わせた「川除けの法」を考案
郡代津田永忠の指揮のもと、寛文6(1669)年に着工、
貞享3(1686)年に旭川のバイパス用の百間川が完成。前述の
上道郡竹田村(岡山市竹田)より旭川の東側を大きく迂回し操
山の麓で東に折れ、さらに操山の東端から南下、児島湾に注
ぐようにした。
「川除けの法」とは、まず荒手を三ヶ所に造る。
「一の荒手」は、旭川がある一定の水位を超えたときに、この荒手を水が越すようにつくる。そして越流した水を「二の
荒手」との間に一時どどめ、その中に含まれる土砂を沈殿さし、さらに増水すると「二の荒手」、「三の荒手」と越流さ
すことによって下流の被害を軽減さすようにした。
「百間川」の由来は「二の荒手」(中島竹田橋直下流)の幅が導流堤を含め百間(約180m)あったことによる。さらに一
の荒手の高さは京橋のところの水位を指定し、洪水がここまでになったら荒手を超すようにとその高さを決定した。しかし
その高さ決定についての詳細がわからない。
「二の荒手」写真は、「二の荒手」を竹田側から見たもの、写真上部の橋が中島竹田橋。一の荒手は今では当時の面影を
とどめてなかった。そして三の荒手は現存していない。以上現地案内板及び「城下町おかやま 岡山開府四百年記念誌
」(岡山開府四百年記念誌編集委員会編)参照。
この百間川は岡山市街地を貫流しておりその空間は豊かで潤いのある水と緑のオ−プンスペ−スとして公園・テニス・
野球・ゲイトボ−ル場等の設備が出来ており、多くの市民の憩いの場として利用されている。
ところで、百間川はその機能、設備よりむしろ「古代遺跡」が豊富に出た事で名が知られている。川の改修工事でそ
の河原から多くの遺跡が見つかり、総称して「百間川遺跡」という。西から下流に向かって、原尾島遺跡・沢田遺跡・
兼基今谷遺跡・米田遺跡の各遺跡群が発掘調査されている。それぞれから、縄文・弥生時代、そして鎌倉室町時代頃の
集落跡が見つかっている。それらは遺調査後、埋め戻されている。米田遺跡のなかに戦国時代の悲話「笄の井戸」跡が
現存している。
ちょっと寄り道してみた。
笄の井戸
上道郡誌(上道郡教育会著 大正11年発行)に云う。
『正木ノ井=可知村大字中川正木山の麓にあり今其由緒を述べ
んに天明文年の記録に鳥打乢の南東の山下に井あり
正木井といふ正木兄弟此井に投死す故名づくとあり
又中川記に正木井は鳥打乢の南麓にあり其昔正木兄弟此井に入
りて死す其の供養の為毎年7月11日岩間寺の僧徒読経すとあ
り又里民の口には昔正木大膳太夫の妻落城の際此井に投身し風
雨多年幽魂永く其の帰趣に迷ふ爾来毎年7月15日を期とし井
中或は櫛笄の髣髪することあるにより之れを笄井と称すと。明
治45年6月同地の有志者之を修繕して保存する事となりたり
。』と。
また、『幡多二千年の歩み』(幡多学区連合町内会発行)から
抜粋する。
永禄10(1567)年妙禅寺城の戦いで勝利し、さらに進んで岡山城
主金光宗高を服属させ天正元(1573)年岡山城に入った。
天正17(1589)年正木城に入った正木大膳正康をその後まもなく宇喜多秀家が落城させた。
時代が下って、大阪城をめぐって豊臣徳川の攻防戦が起こっている頃の元和元(1615)年、正木山に正木大膳亮時が舎弟梅王丸と力を合わせて築城を急いでいた。城は児島湾を望み、中国路の要衝の地にあって金城鉄壁を誇ったが、播磨姫路城主本多美濃守忠政五千の軍勢をもってこれを囲んだ。(一説には秀家が二千の兵を持って囲んだとする説あり)そして落城の前日、大膳亮時の内室玉尾の方(一説には君千代の方)は、姫君初瀬を抱いて馬の乗り、正木山をななめに駆け下りて、城内の井戸に身を投じた。その後、正木山北麓岩間山最明寺の宝山和尚がその忌日7月11日他の僧侶と共にこれを弔ったところ、と共にこの二人を供養していたところ井戸の水面に、くし、こうがい が浮かび上がった。これを人呼んで「笄の井戸」という。
さらに、操山の東端の麓の県道沿いには文責が書かれていない現地案内板が建つ。『百間川河口より6・5Kmのこの地には、高さ56mの正木山がある。頂上には、天正(1573〜1592)の頃、正木大膳正康の居た城があったと伝えらる。宇喜多直家に攻められ落城の前日、大膳の内室玉尾の方は、姫君初瀬を抱いて馬の乗り、正木山をななめに駆け下りて、井戸に身を投げた。後に、この二人を供養していたところ井戸の水面に、くし、こうがい が浮かび上がった。この井戸を「笄の井戸」という。』とある。
三者三様の内容でなにが史実か確定的なことがわからない。
そもそも正木山とは操山の東端にある標高56mの小山のことで、この付近は百間川遺跡群のなかの一つであり一番東部の米田遺跡にあたる。この遺跡のうちでも、特に奈良時代から室町時代にかけての遺跡では道路や橋脚跡、掘立柱の建物郡が発掘されていることで知られている。
其の遺跡のなかの笄の井戸、これは「妙禅寺崩れ」によって多くの武士や巻き添えにあった農民等々多くの人が戦死たのであろう。その霊を慰めるためにこの戦の惨事がいろいろな形で言い伝えられてきたのであろう。現にこの戦場となった可知周辺の村々、特に中川では、明治の初め頃まで青年団の行事として毎年8月16日の送り火に正木山の中腹に「正」の字を添加して当時の霊を弔っていたという。(『幡多二千年の歩み』 幡多学区連合町内会発行)
「笄の井戸」の伝説は郷土に語り継がれている正木城落城の哀話であろう
百間川に至る手前で、山陽道は南北に走る県道の藤原交差点
を横切る。
この交差点を県道沿いに北へ約2k行ったところに、備前国
府跡がある。昭和34年岡山県史跡に指定された所である。
そもそも、「国府」とは何か。それは律令制において、国司
が政務を執った施設を国庁といい、国庁と其の周りの役所郡
、都市域を総称して「国衙」或いは「国といった。国
府は室町時代に完全に消滅しそのほとんどが所在不明となっ
ている。
道路に面して立つ鳥居をくぐると国庁宮と呼ばれる大国主命を祭った社がある。この社地18ア−ルが備前国
庁跡と伝えられている。周辺は住宅で囲まれていて、社地は
雑草におおわれ、その中に拝殿と本殿があるのみで、岡山市
教育委員会の「岡山県史跡 備前国庁跡」の説明版があるの
で、それと確認できるのみである。
この備前国府も現在のところ、ここ旧上道郡高島村国府市場(岡山市国府市場)を中心とした地域を想定しているが、
発掘等により推定したものではない。あくまで、平安時代の書物や周囲の地名、長森(庁の森)・北国長
(国庁)・南国長など国府関連の地名から、現在の社地を中心に国庁があったと推定したものである。しかし国府は御野
郡であるとか、砂川の西の河本であるとか異説もあり、府域の確定には至っていない。
(岡山市教育委員会現地説明版、「吉備と山陽道」、岡山市立高島公民館「備前国庁跡佐々木順子著」参照)
X--2 森下から京橋へ
城下への入り口森下町に入り山陽道は南下する。まもなく御成川にかかる勲橋を渡る。
この御成川は操山を水源として旭川に注ぐ川で、岡山藩主が
藩菩提寺の曹源寺(岡山市円山)の正覚谷に造営された大禅寺
に墓参するために整備した御成道である。
勲橋ふもとに感義稲荷社がある。
勲橋を渡ると古京町、そして上・下片上町(現中納言
町)、大黒町(現中納言町)、小橋町、東中島町、西中島町と
続き、旭川にかかる京橋に至る。京橋を渡り橋西詰の町が橋本
町(現岡山市京橋町)である。
町名の由来を調べながら今回の終着点、、京橋西に進む。
まず森下町、もとは国富村の一部であったが、秀家が山陽道をつけかえた時にできた町である。現在の森下町・古
京町一丁目の一部にあたる。
古京町、直家の頃、京橋がここにかかっていた。其の当時は橋を「大橋」といい、たもとの町を大橋町といって
いたが、この町は京や大阪の呉服を扱う店が多かったので「京町」と改名した。それを秀家が山陽道をつけかえた時
にこの橋を現在地に移した。そこで「京町」を古京町と改めた。
上・下片上町、上片上町はもと「片上町」と呼ばれ、直家が和気郡片上(備前市片上)の富豪久志屋(志賀家)
を呼び出しここに町を作らせた。また下片上町はもと「伊部町」といい、伊部の商人を呼んだか、あるいは、町が伊部
焼きの専売権を持っていたためだろうか、ともいわれている。ともに現在の中納言町にあたる。
大黒町、もと東すくも町という。由来不明。現在の中納言町にあたる。
南に下った山陽道が現在の市内電車道に出たところで、西に向かい小橋、中橋を渡る。
小橋町、もと鍛冶屋町という。東は侍町の門田屋敷に接し、西は小橋を渡ると東中島町、南は国清寺がある。町名
は鍛冶屋が住む「鍛冶屋町」から小橋にちなんだ「小橋町」へと変わった。現在の小橋町にあたる。
東・西中島町、旭川の中州にできた町人町である。まず西中島町は、もと中須賀町という。児島の豪那須
半入に秀家がこの地、中島を与えたといわれいる。
西中島町は江戸時代、城下の宿屋の営業権を独占していた。水運の便のよい場所で、高瀬舟の船着場があり他国の商人
も多く集まった。現在の西中島町にあたる。
次に東中島町は直家の頃、備前福岡(瀬戸内市福岡町)豪商阿部善定を招いてこの東中島の地を与えたという。町内に浄
土宗霊厳寺、浄土宗教徳寺、同源照寺の三寺あった。現在の東中島町にあたる。明治期になると西中島とともに花街と
なった。
西中島町・東中島町を小橋、中橋で渡るとすぐ京橋にかかる。
京橋を渡り終えたところにがる町、ここは宇喜多氏が城下町を
建設したとき造られた町人の町で、旭川の水路山陽道の陸路を
利用する多くの問屋があった橋本町(現京橋町)である。
京橋、京橋は直家の時代、京町(現古京町)と対岸の武家屋敷との間にかかっていて「大橋」といった。そして、橋
のたもとにある町を「大橋町」といっていた。この町に京、大阪の呉服を扱う店が増えてきたことから、「京町」と改名し
それにちなんで「大橋」を「京橋」というようになった。ところが、秀家の文禄2(1593)年、児島の豪商那須半入が秀家
の許しを得て、現在地に京橋を架け替え、西中島を賜り屋敷を建てた。その頃、山陽道を変更してこの京橋を通し、城
下の商人町へ導く城下町繁栄策をとった。橋は長さ68間2尺(約125m)、幅4間(約7.3m)で69本の柱を使った木橋であ
ったという。
京橋西詰め付近の河岸は港として栄え海船や高瀬舟などの出
入りが多かった。大きな廻船は入れなかったが、中小の廻船
、それに旭川、吉井川―倉安川経由の美作方面の高瀬舟が頻
繁に出入りしていた。当時は旭川の川口がかなり上流にあり
、内海に出るのに便利だった。
「京橋より牛窓湊へ7里、下津井湊へ10里」とある。また、
四国へは毎日便船があり、大阪へも1と6の日に船が出たとあ
る。京橋のたもとの橋本町(現京橋町)・舟着町(現京橋町、京
橋南町)はまさに開運の拠点として繁栄していた。
京橋西詰に城下町の玄関口に京橋門(現岡山市小串 赤木氏所
有)が設置され、その門を 夜五つ(午後8時)から翌朝七つ(午
前4時)まで閉めていた。門の南に接して高札場が設けられて
いた。岡山城下町、備前藩31万5千石の顔としての京橋付近
に非常に気を使い、橋の上での夕涼の禁止、干し物の禁止、
また商売も厳しく制限した。橋守をおいて毎日欄干まで掃除
させていた。岡山市小串赤木宅に残る京橋門は、現在小串小
学校正門前の道を南へ150m程いった辺りにある赤木家の表門
として保存されている。
見学に行った当日(平成20年3月)は、門の入り口に「猫の侵入
防止のため ? 」のペットボトルが数本置かれていた。
この門は写真の如く薬医門の形式をとる。両開きの扉で右脇門は板壁、左脇門は腋戸となっていて、扉板の矧目
に鉄板をはり、乳金具と八双金具を持ち、騎馬侍も通れるように高くなっている。
ずいぶん立派な門だ。地元小串では「大門」と呼ばれ、明治9年に同家に払い下げになり、赤木家の教会所(私学校)の門
となっていた、といわれている。
この京橋は大洪水のため何度も補修や付け替えがなされた。弘化4(1847)年、64年ぶりに架け替えられた時の、きらびや
かな渡り初めの模様が木版画に残されており、橋の西詰に「京橋渡り初めの図」として陶板で掲示されている。
その原画は「備前岡山京橋渡り初図」で岡山市立図書館に所蔵されている。備前藩家老伊木若狭等の藩役人のほか、児
島郡小串村の仙吉夫妻とその子8人が渡り初めをおこなった、と錦絵に記されている。その木版画には、京橋西詰めの京
橋門から京橋、西中島、中橋、東中島、小橋そして小橋町が描かれている。橋げたの川原から見上げる町民達等々生き
生きと描かれている。
京橋西詰の南、道路沿いに
岡山県里程元標(りていげんぴょう)がたっている。その里
程元標について現地案内板には下記のとおり書かれている。
『岡山県里程元標は岡山県の里程起点を表示するもので明
治9年京橋西詰に設置され、その後幾度か建て替えられて
いるが、この岡山県里程元標は明治0年に建て替えられて
から大正4年京橋が付け替え工事の頃まで設置されていた
。当時の陸上交通に大きな役割を果たした貴重な歴史的資
料であり、今回同元標の設置場所に近い現位置に復元した
ものである。なお、派出所前の道路元標は旧道路法により
大正9年にたてられてものである。岡山県 』と。
この京橋をすぎると岡山城下町に入る。
岡山県里程元標
平成20年3月末 記